若者はなぜ3年で辞めるのか

最近入手した一冊です


まだ一章の途中の段階ではあるが印象的な記述があったのでメモ


引用--------------------
「彼ら(若者たち)はわがままな反面、われわれの世代と比べると明らかに忍耐力が劣っている」
(中略)
明確なキャリアプランを持ち、そのために努力し厳選採用に対応して正社員の地位を獲得できるグループ。
もうひとつは「ただなんとはなしに」有名企業ばかりに応募しつづけ、中々内定の取れないグループ。
少なくとも"就職"という社会人の始発駅段階では、前者のグループの方が優秀だと思える。
(中略)
彼らは入社後、希望していた業務と実際に割り振られた業務にギャップがあった場合、強烈なフラストレーションを抱え込むことになる。
引用終わり-----------------


私も若者の世代だけど(こらそこ、違うとか言うな)
わがままだの忍耐力がないだのは頻繁に言われる、私にじゃなくて私も含む世代全般に。
だが、同時に本書でもある「どのようなキャリアプランを持っていますか?」ともよく聞かれる。


それでもそのプラン聞いて合意した上で採用されたにも関わらず別の業務に回されそうになるなんていうのは体験済み
ちょうど一年くらい前になるが、Webデザインの仕事をしろという話である。
さらにその半年ほど前に採用段階では社内のPCとネットワーク、サーバ管理が本来の仕事だった。
畑違いの会社ではあったため方向性の違いを理解してもらえなかったと当時は思ったが
この本を現段階見る限りはそこまで社内の人材コーディネートしている会社はさほどなさそうな印象である。


ここではひとつ矛盾が生じる
とある業務があって、それをするために特定のスキルや方向性もった人が必要なので人を採用するのに
実際に行う業務が変わってしまっているのである。
本来やるはずだった業務がなんらかの理由でなくなってしまい、他にないので違う業務を、というのは理解できるが
その反面で採用の段階では専門性を持った人間を求めるという矛盾が生じている
専門性と汎用性は相反する


ここまで考えた上で思うのは年功序列の爪痕は意外と大きそうだと思う
本にもあるが、昭和時代に求められた人材像は「なんでもやる」人
もちろん仕事で専門的なことが必要ではあるが、それは会社に居続ける限り身に付けられる
もし人手が別の場所で必要で今とは違うことが求められてもやる人なんである
求める人材像は変わったが、この人の動かし方がまだ色濃く残っているように思う
もっとも専門性が身につくまで人が定着しないのではあるが・・・


時代に乗り遅れた人間は生きていけないことを18世紀の産業革命が証明したと言われているが
求める人材像が変わったのならそれに適応する人の動かし方をしなければ
「時代遅れ」のレッテルと共に消えていく運命にあるのかな


そんなことを感じた