秋葉原無差別殺傷、その舞台裏に最も近いもの

http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610#1213114352
下手なニュースより犯人の背景に迫れるような気がする。


正直なところ、このニュースに対して私は触れないでおこうと思っていた。
それはただのイカレた野郎に触れたくないから、そして共感は微塵も起こらないと思ったから。
しかしこのエントリを読んでそれは崩れる。
もちろん、犯人を肯定することも、私が犯人になぞらえることもないことは付け加えておく。


私はどちらかと言えば孤独が好きな方である。
それは、自分の中にある自分が曖昧で、他者といる限りそれを見ることができないから。
人によっては他者の中に居ても強く自分を出せる人は居るが、私はそうではない。
だから孤独でこそ会える自分は少しほっとする。


しかしそれは毎日他者の中の自分と会っているからこそ、と言えると思う。
決して自分の中の自分とは同じじゃないけれど、自分の中に居ない自分の一部なのだ。
他者の中の自分は決して私に対して優しいわけじゃなくて、時には無茶も言うものだ。
それがいいことばかりでもないのだけど、たくさん居る他者の中の自分は自分の中の自分とは違う安心感を与えてくれる。


孤独とは薬である。上手く使えば、自分を見つめなおしたり振り返ったりすることで新しい何かを導くことができる。
しかし飲みすぎてしまえば、いやそれしかなくなってしまったらイカレてしまうしかないのだろう。


彼は孤独だった。しかし、凶行が見ず知らずの他人に少しずつの孤独を与える結果となった。だから悲しい事件だと思う。
自分の苦しみをプラスに変えられることもなく、ただそれを振りまいただけだった。
他者の中の自分が居れば、まだそうなる前に何かあったのかもしれないが・・・。


まだしばらくは責任の所在をめぐってあっちこっちはにぎやかなままだろう。
冒頭のエントリを引用してトヨタにでも批判の矛先が向くのかもしれない。
しかし、そんなことは今更どうでも良いのではないか。


ただ学ぶべきは、温もりのない合理主義が最も非合理的なのではないかと。そして見える中で孤独に埋もれる人を見逃さないことなのかなと思う。